杉並原人

 気絶した。
 地下鉄丸の内線の中。快い振動に誘われて
眠っていたのだ。それも一番前の車両の運転
席に近い座席に座っていて。
 それからストンと意識がなくなった。
 ぐっすり寝込んだのではないかと思われる
かもしれないが、かんぺきに失神。
 意識がもどった時は、車内のスチール壁に
片頬をくっつけて、蛸みたいにぐにゃりとノ
ビていたのだ。
「ここはどこだろ。おれはいま、何をしてい
るんだ?」
 まるで白い紙にポツンと打った点のような
意識だ。
 うるさい音が耳ついた。それから室内の蛍
光灯の明かり。目の前の座席に座っている乗
客。ゆっくり頭をあげると、立っている人や
車内づり広告などが目に入ってきあたりから
から、やっと自分が地下鉄に乗っていること
が分かった。
 一時間後、こんどはある集まりの会場。そ
こで講師の話を聴いていた。
 うとうとしていた。
「このまま寝てしまったら、気持ちいいだろ
うな」と思っていたら、またストン。
「大丈夫ですか。大丈夫ですか」という周り
の人の声で意識を取り戻した。どうやら腰掛
けから床へドタリと落下したらしい。

 数日後、ぼくは東京女子医大の脳神経科の
M教授の特診室にいた。
 脳ミソの権威に会うのははじめてだ。自分
のいびつな頭の形をみただけで、即座に秀才
か鈍才か見透かされそうで不安だ。
「今までに、手足がしびれたようなことはあ
りませんか」
「ありません」
「言語にロレツが回らなかったことは?」
「ないと思います。友人がよく、お前の言う
ことはよく分からんと言ったりしますが、こ
れはただの口ベタだと認識しています」
 権威はもっと的確で、医学的問診をしたよ
うに思うが、もう三カ月も前のことなのでよ
く覚えていない。
「それでは脳の検査をしましょう」
 血液検査、脳波検査。CTスキャン。MR
I(核磁気共鳴装置)検査など。
 ぼくは前々から一度、自分の脳ミソを検査
したいと思っていた。
 五十代という大台ににノッてから、自分の
脳ミソに懐疑的になっているのだ。
 人の名前を面白いほど! 忘れる。
 今まで使ってきた語彙が混乱する。たとえ
ば、インテポンツとインポテンツ。どっちが
正しかったんだったっけ。
 ケンモホロロだったかケンモホロホロだっ
たか。
 数字関係がもっとも苦手。電話口で相手が
電話番号を告げる時。メモ紙に鉛筆で書きつ
けるのだが、どうもあやふやだ。
 「3396の45×△」といわれてすぐ書
き留められない。
「3396の45△×? ですね」
「いえ、4・5・×・○です」
「ですから、5・4・○・△ですね」
 こんなアホみたいなことに手間取っている
ところをみると、間違いなく、自分の脳ミソ
に異変をきたしているに違いない。    
「アルツハイマーだ」
 地下鉄などでの失神はその前兆ではないの
だろうか。
 MRI検査。
 前もって、磁力で影響を受けるものはすべ
て持ち込み禁止。時計、磁気カード(キャッ
シュ・カードなど)。
 昔、心臓の手術をしているので、医師がう
るさいほど「ペースメーカは入っていません
ね」と念を押した。
「入ってません」
 磁力から他の医療機器を守るためか、検査
室は別棟になっていた。
 下着(パンツ)ひとつになり、その上から
病院で用意されたクリーム色の寝巻のような
ものを着せられて、検査室にはいった。
 ベッドに上向きに寝かされ、頭の両側面に
固定壁で挟まれ、そのまま、円筒のカプセル
に体ごとごと挿入された。
 ダダダダダダとビルの工事現場のような音
が耳を襲った。間欠的にヒュルヒュルという
車のアイドリングのような音もする。ワルツ
のBGMが流れている。その間ほぼ四十分。
 そうやって、検査は終わった。
 再び、権威の特診室。
「まったく異常ありませんね」
 M教授の声には心なしか、落胆の響きがし
た。ぼくは身を乗り出して、壁面のトレス版
の無数のフイルムの脳ミソと体面していた。
「自分の脳ミソだ!」
 右脳、左脳、前頭葉、後頭葉、間脳、小脳
、脳梁体、視床下溝、延髄。
 頭蓋骨のフイルムもあった。
 なんて美しいしゃれこうべで。ぼくの外見
は貧相だが、中身の骨組みは芸術品だ。
 なだらかな曲線。ぴかぴか光るぞうげ色?
 ぼくは、何百年かの後、考古学者が「これ
は杉並原人の骨ではないか」と狂喜するシー
ンを思い浮かべた。
 
94年1月号「文芸春秋]