手塚治虫の「フースケ」

 ぼくの小学生時代(昭和二十年代)といえ
ば、商店街から流れる歌謡曲か映画、貸本く
らいが手近な娯楽だった。
 夏になると、公園の広場とか校庭なんかで
青空映画館が開かれた。(もちろん無料だ)
 うれしいのは、劇場でやる映画と同じよう
に、始めに「日本ニュース」や「メトロニュ
ース」なんかがあって、その後短編の漫画映
画を二、三本やってくれた。
 当時はアニメーションのことを動画といっ
ていたが、これがこどもにとって最大の楽し
みだ。
 どんなものをやっていたか、ほんとどは忘
れてしまった。
 そのあとがメインの映画となる。
 学校からは「二十の瞳」とか「鐘の鳴る丘」
みたいなマジメなものを映画館で観せてくれ
たがあまりオモシロクない。
 青空映画は、嵐寛十郎の「鞍馬天狗」や大
河内伝次郎の「丹下左膳」、月形龍之介の
「姿三四郎」といった超娯楽巨篇だ。
 そんな映画を地べたにゴザを敷き、腹巻を
したおっさんなんかがドブロクを飲みながら
観ていた。
 こどもはスルメをかじりながら観ていた。
 ただ青空映画の難点といえば、雨が振れば
中止。それに天空にまーるいまーるいお月様
が出ていたりすると、地面に立てかけたスク
リーンが月光に照らされて映写効果が半減す
るので、これも中止になった。
 映画のほかに貸本屋があった。
 講談本や漫画本が安い値段だ読めた。
 そんな中で、ぼくは手塚マンガと出会った。
 最初に見たのは「新宝島」だった。今でも
印象に残っているのは、手塚さんの漫画の描
線がヘンだった。
 誰かがマネて描いているような稚拙な絵だ。
これはアトで知ったことだが、その頃の印刷
技術は進んでなくて、なぜか原画を印刷屋の
職人がトレスして、それを印刷していたらし
い。
 手塚さんはそれがたまらなく不満らしくて
自分が印刷屋に出かけて、自分でトレス?
していたのもあった。
 ところがそれも最初の二・三ページだけで
あとは職人がつづきをせっせとマネた。
(そんな本が今残っていればとてもナツカシ
イ)
 すこし脱線するが、手塚マンガの他に、や
けに昆虫のうまい漫画家がいた。何ていう作
家だろう。あれもよかった。
 漫画本のほかにも活字の講談本もあって、
これもむさぼり読んだ。「荒木又右衛門」
「壇団右衛門」「猿飛佐助」など。
 貸本ではないが、少年雑誌も盛況だった。
「少年」「少年画報」「冒険王」などなど。
 この頃はとても個性的な漫画家が力作を載
せていた。
 福井英一「いがぐり君」、倉金章介「あん
みつ姫」、井上一雄「バット君」、島田啓三
「冒険ダン吉」、緻密な絵を描くうしおそう
じとあげたらキリがない。
 中でも「漫画少年」という本は異色で、唯
一漫画家志望のためにページをさいてくれて
いた雑誌だ。
 トキワ荘で有名な、寺田ヒロオ、石森章太
郎、赤塚不二夫、藤子不二雄たちはみんなこ
こで育ったのだ。
 ぼくもセッセと投稿したが、一度も載らな
かった。(選外で名前だけは載ったことがあ
る)
 しばらくして「漫画少年」が廃刊となり、
ぼくも少年漫画への夢は消えた。
 それから、いろんなイキサツがあって、ぼ
くは大阪のタブロイドの夕刊紙で大人のナン
センス漫画をを描くようになった。
 そして東京オリンピックの年(昭和三十九
年)に上京したのだ。

つづく