駆け出しの時代

 二十二歳の時、尼崎から東京に出てきた。
 それまで大阪の夕刊紙に漫画の連載を持っ
ていたが、やはり東京で仕事をしたかった。
 東京に出てきてはじめにやった仕事は、出
版社への挨拶回り。
「このたび上京してきました。ひとつよろし
く」
 そして名刺がわりに大阪時代の仕事の切り
抜きの数々を置いていった。
 そしてあとは下宿屋の三畳一間でジッと腕
組みして待つだけだ。机の上には真新しいイ
ンキと真っ白いケント紙。すぐに仕事に取り
かかれる態勢だ。
 しかし待てど暮らせどフンともスンとも音
沙汰なし。おかしい。おれのことを失念して
いるのか、それとも原稿料をいくら出せばい
いのか思案していのかしら。
 仕方がないので、出版社の一つに電話して
みる。
「アノー、砂川ですけど。ハイこの間、挨拶
にいきました大阪の漫画家のハイ、用件?
アノ、依頼原稿のことで、エエ? 頼んだ覚
えがない? ええ、そのことなんです。ハア?
何か描いて持ってらっしゃい、そしたら見て
あげますって、アノ、ガチャン」
 こうなのだ。
 テキはぼくの端倪すべからず才能にまった
く気がついていない。
 仕方がないので、自分から原稿を描いて持
ち込むことにした。
 水道橋のH社。ぼくの目指すところはもっ
と上の上だったが、しょっぱなの電話で出鼻
をくじかられたので少し謙虚になった。
 H社はうなぎの松竹梅でいえば竹か。
「あずかっておきましょう」
 竹でもこうなのだ。あずかっておきましょ
うというのはボツという業界の隠語くらいは
知っている。はっきり「これは駄目です。使
えません」となぜはっきり言わんのやと腹が
たつ。
 しかし世の中甘くないなあ。地方出の漫画
家には骨身にしみる現実だった。
 新宿の音楽喫茶に入りシューベルトの「八
重奏曲」を聴く。「くやしいなあ」
 外に出るとデパートのショ−ウインドーの
TVの前に人だかり。ダイマツ監督率いる日
本のバレーボール・チームの実況だ。
 世をあげて東京オリンピックのお祭り騒ぎ
の最中なのだ。
 ちっとも面白くない。こんなことでクサっ
てたまるか。
 とにかくぼくの最大の敵はくさることだ。
 それから三年。
 気がついたらぼくは売れっ子になっていた
。ただし発表誌は竹や梅ばかり。中には目を
おおいたくなるようなセックス専門の梅もあ
る。 もっとオッパイを出しましょう。もっ
と股を広げさせましょう」
 これも修行だと思って一生懸命描いた。
 たとえレイプシーンを描こうともクサって
はいけないと自分に言い聞かせた。
 竹梅雑誌のいいところは、何を描いてもい
いということだ。過激なほど喜ばれる。
 素材のうなぎがわるいのだから醤油やコシ
ョーやらでごまかすほかないのだろう。
 そんなメニューの中で時代劇、太古もの、
現代もの、SFもの、ナンセンスものなんで
も描いた。いい修行になった。
 一番の収穫は仲間ができたこと。秋竜山や
谷岡ヤスジ。
 みんな希望に燃えていた。
「はやく、漫画読本や漫画サンデー(現在の
漫サンではない)で描きたいなあ。一流誌で
仕事したいなあ」
 谷岡の下宿でスキヤキをやりながら深夜ま
で漫画論を戦わせたのもこの頃だ。
 みんなクサっていなかった。
 今思えば、この駆け出しの頃が一番、目が
輝いていた。

(94年4月・NOMAプレス)