東京ショック

東京に居を構えて三十年になる。
最近は物忘れがひどくなって、二、三日前の
出来事を思い出すのでさえママならないが、
東京に出てきた頃の記憶は、しっかり脳ミソ
のひだに留まっている。
もっとも、その頃は律儀に日記などをシタタ
メテいたせいもあるが、なんといっても、地
方から東京に出てきて味わったキャピタル・
ショックは相当なものだった。
まず第一のショック。
東京の人々がみんな標準語を話していたこと。
関西の「あほんだら、ボケ、カス、おおきに
イッパツやったらんかい」といったエゲツナ
イ言語圏育ちのぼくにとって、真空管ラジオ
や街頭テレビから流れてくるNHKの標準語
放送(または東京弁)は、まぶしかった。そ
れをジカに聴いたのだ。
電車の中で、とくに若い女性たちがかわす
「あら、いやだわ。まあ、ほんと? 素敵だ
わ」といった会話を聴いただけで、自分はド
ラマの中で通行人の役をやっているのではな
いかと錯覚するぐらい恍惚としたものだ。
第二のショック。
それは緑が多かったこと。
大阪は水の都というくらい、川や橋が多い。
そのせいか樹木が少ない。
東京はあちこちに森のようにうっそうとして
いた空間があり、樹々の間から所々ビルがニ
ョキリという感じであった。
神宮にしても皇居にしても大阪に比べたら広
大なオアシスだ(もっとも、今から三十年前
の東京の話だけど)。
第三のショック。
うどんが、飛び上がるほどまずかった。
大阪では、おやつのうように素うどんを食べ
たり、素うどんをおかずにしてご飯を食べる
こともできた。
梅田の地下街の立ち食いうどんでさえ、スー
プ一滴も残さずいただいたものだ。それほど
うまかった(最近は食べたことないから、知
らないけど)。
それに比べて、東京の駅前のうどん屋はなん
や。コールタールでも溶かしたような真っ黒
い汁。泥色したうどん。ハシをかいくぐらせ
ると、ふにゃりとくずれる。
おわんごと口にそそぎこんで、ぽくは悲鳴を
あげた。世の中にこんなまずいものがあるん
か。
勇気ある大阪人なら、「おい、おっさん何や
これ。アホか。おれを殺すつもりか。どつい
たらろか」と痛罵するところだ。
第四のショック。
学生があふれていたこと。
新宿、渋谷、神田、どこを歩いても、亀みた
いにノロノロ歩く経済活動に無縁の若者たち。
その群れに紛れ込もうものなら、視界は完全
にシャットアウト。
(今の学生諸君の図体もデカイが、三十年前
もデカかった。こっちがチビというせいもあ
るけど)
ほんまに息苦しかった。
ともあれ、東京はぼくにとって、とても刺激
のある都会だった。
それで肝心のぼくのこの頃の活躍であるが、
くやしいけれど清貧の日々だった。
ぼくが東京に出てきたのは、もちろん中央で
漫画を描きたかったからだ。
それまで大阪の夕刊紙で四コマ漫画の連載を
した経験はあったから「おれは、これでもプ
ロのはしくれや。新人やないで」という意識
があった。
しかし、漫画の切り抜きなど、東京の編集者
に見せても、片頬も動かない。つまりまった
く無視。
それでぼくは目が覚めた。
「よし、やったるデ」
ぼくの最終的の目標は「漫画読本」に作品が
載せることだった。
しかも持ち込むのではなく向こうから原稿依
頼がくること。もしこれがかなえられればも
う「漫画家」を止めてもええと思ったくらい。
最初は比較的攻めやすい中堅どころの出版社
をターゲットに持ち込みを開始した。
水道橋にあるH社がいちばん持ち込みの回数
が多かった。
ここでの応対は「お預かりしましょう」だっ
た。関西ではあかんという意味だ。
しかしワラをも掴む心境で、その週刊誌の発
売する日を心待ちに待った。
駅前の売店で雑誌を買い、電柱の陰でこっそ
りページを開く。この時の、不安、期待、ト
キメキ。
ない。がくり。
次の週。同じ電柱の陰で不安、期待、トキメ
キ。
ない。がくり。
「死んだろか」
あの頃はそんな繰り返しの日々だった。                    

(94年4月号「オール読物」)