メタリックなバラード

 F2号は走った。

 全力疾走で走った。左右の景色がはじけながら後方へ飛んでいった。靴がダブ
ダブで脱げそうだった。緊急発進のため、あやまって高一になる長男のスニーカ
ーを履いてしまったのだ。踵が、まるでパンツのヒモが切れたようで頼りなかっ
た。F2号も走りながら落ち着かなかった。落ち着かないぶん、スピードが出た。
 そのとき、急に左の耳に焼け火箸でも差し込まれたような、激痛を覚えた。
 F2号は青白い光を放ちながら、菜切り包丁が左視界を横切り、前の電柱の

「赤錆にはトロリヤン軟膏」という看板に突き刺さるのを見た。
 F2号のツマのコントロールは冴えていた。
 左の耳がみごとに削がれていた。
 F2号は、ヴァン・ゴッホになったようでわるい気がしなかった。
 しかし、その気分もながくはつづかなかった。つぎの激痛が右耳を襲ったから
だ。
 右視界に灰色の肉切り包丁が、灰色の光を放ちながら、F2号を追い抜き、前方
の電柱の「青錆には塗りチンキンタムシ油」という看板に突き刺さって止まった。
F2号、走りながら両耳のない芸術家をあれこれ思い巡らせたが、そういう人物
を思いだすことができなかった。しかたがないので、「耳なし芳一」で我慢する
 のだった。
  F2号は走った。
  加速が急に楽になったことに気がついた。おそらく両耳が欠落したため、空気
 抵抗が減少したのだろう。
  そのとき、ビルの陰に交通取締りの警官が、腰のあたりのエンジンの暖機運転
 をすませて待ち構えていた。
   F2号は気がつかなかった。
  警官は手にスピード測定器を持っていた。しかし、F2号は運がよかった。
  警官のいる手前百五十メートルのところでスニーカーがとつぜん脱げてしまっ
 た。そのために急速にスピードが落ち、警察官の前を通過するころには時速四十
 キロになっていた。
  警官はくやしさのあまり、測定器をむしゃむしゃ食べはじめた。そして、ロか
 らネジを手の上に吐き出すと、それを男に投げつけた。
  F2号は頭上のアンテナに軽い衝撃を感じながら、なおも疾走をつづけた。

  オンナはF2号を愛していた。
  婚期を三十年も越えていたが、乳房も尻もまだゴムマリのように弾力に富
 んでいた。 
  オンナはベッドに横臥しながら、アパートの階段をペタンペタンという、せ
 わしげな音を立てながら上がってくる足音を聞いた。
  いつものように扁平足の足音とちがうのにおやと思った。
 「F2号じゃないわ」
  しっかり階段の鉄板に足の裏が吸引した音だった。
  オンナの臍のランプが赤く点灯した。
  性的警戒のしるしだ。
 「バタン」
 「誰っ」
 「お、おれだ」
   オンナが相手を確認する間もなく、その来訪者は女の頭上を水平にかすめ、そ
  のまま道路に面した窓を砕いて下に落下していった。
  オンナが窓に近づこうとしたとき、また階段を駆けあがる音を聞いた。一回り
 してきたらしい。
「バタン」
「誰っ」
「お、おれだ」
来訪者はオンナの頭上をスレスレにかすかにかすめて、窓際の壁にぷつかって、 
 止まった。
  F2号はのびていた。
  オンナはカナヅチでF2号の前頭葉を、中よりやや上くらいの力で叩いた。
  F2号は口から白い煙をひと吹き出して、両目を覆っていたセラミツク製のマブ
 タがうっすら開いた。
「どうしたの、そんなにあわてて」
  オンナがF2号の顔をのぞきこんだ。
  F2号はガバリと起き上がり、
女房のヤツに、おれたちの関係を知られたらしいんだ」
  オンナの鼻の下の、ハナクソのようなイボがパッと点滅した。動格のしるしだ。
「さあ、はやくここから逃げるんだ0はやく支度して」
「逃げるって。どうやって」
「疾走するんじゃないか」
 F2号はイライラして言った。
「わたし、疾走免許ないのよ。走れないわ」
「そうだったか、よしおれがおぶってやる」
  そういうとF2号は尻から黒い煙を吐いてブルンブルンとアイドリングを開始し
た。
「だめよ、あなたの一種の普通免許でしょ。人をおぶって走るには二種免許が要
 るのよ」
 F2号はエンジンをふかしながら、
「構うもんか。もぐりのテクシーがいっばい道路を走ってら。捕まったら捕まっ
たときだ」
  F2号は乗りやすいようにオンナの前に尻を向けて中腰になった。オンナは壁い
っぱいまで下がった。そして、はずみをつけて飛び乗った。
F2号のビニール製の毛舶血管が、五、六本目玉から飛び出した。
オンナの体重はF2号の積載能力をかなり上回っていた。しかしF2号は五回目の
ロボ検を終えたばかりなので、なんとか持ちこたえることができた。
F2号はオンナを背中におぶって、アパートの外に出た。
外は真っ暗だった。F2号は手をオンナの尻に当て、二三虔、屈伸運動をした。そ
しオンナの尻の座りをよくした。
星ひとつ見えなかった。
F2号は尻から黒い煙を吹き上げ、けたたましい音を立てて発進した。しかしもの
の五十メートルも進まないうちに、彼らほ歩道にのり上げ、ケヤキの木にぶつか
った。
「だめじゃないか、前方がみえないじゃないか」
オンナは掴まる耳がないため、F2号の目の中に指を突っ込んでいたのだった。

ツマほ夫のF2号の下着を剃刀でズタズタに切り裂いた。そして1着の切れ端で、
脇の下からあふれ出るグリスを拭き取った。
「あんちくしょう−、許してなるもんか、クヤシーイ」
六千五百ヘルツのカナキリ声は空気を激震させた。窓辺に置いてあった金魚鉢か
らナュウキンがが飛び出し、天井にアタマをぷつけて頓死した。
「カスオ、カスオ」
 ツマは天井に向かって長男を呼んだ。

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