にこにこ(続・ぶつぶつ)

かれの名をスマルといった。年齢は分からない。大変な老人のようにも見えるが、少年の
ようにも見える。スマルはうまれたときからずっと、なんともいえない笑顔もっていて、
この笑顔をみたものは、とてもしあわせな気分になるのであった。
 たとえ地球より重い苦悩をせおった男が、みずからの命に終止符をうとうと、森の奥の底
なし沼にちかづいたとしても、スマルのきよらかな笑顔にでくわしたとたん、その自殺志願
者は、たちまち幸福感に満たされ、自分が、ちかくにピクニックにでもきたような気分にな
つて、沼のそばのすみれを摘むのであった。
 いじわるで陰湿な雷雲が、ひとびとの稲の収穫をじゃましょぅとしても、スマルが天を仰
いではほえみかけると、たちまち暗雲がきれ、あいだから、抜けるような青空がひろがって
いくのであった。
 スマルの村は、いつも花が咲きほこっていた。

 このスマルにひとりの子供がいた。いや孫かも知れない。どちらであれ、スマルはこの子
をとてもかわいがっていた。
 この子のためなら、千里の谷まで野いちごを採集にいくことも、岩谷の清水をくんで、体
をあらってやることも、いとわなかった。
 ある日、この子が底なし沼に落ちて、死んだ。
 さすがにこのときばかりは、みんなは、スマルの目から大きなこめ粒大の涙がながれ出し、
あの柔和な唇からは、運命をのろう言葉が吐きすてられるにちがいないと思った。
 だがスマルは、このときも、真珠のようなひとしずくの涙をながしただけで、あとはいぜ
んとかわらない笑顔にもどった。
 スマルはそのことがあってから、旅にでた。
 タンポポのわた帽子にのって飛んできたたよりによると、スマルが村を発ったあと、この
地に、かんはつが襲い、沼は干あがり村は全滅したと開く。
 スマルがある街道を通りかかったとき、ひとりの若い水車小屋の娘が大木の下で、三人の
屈強の大男に乱暴されようとしていた。
 スマルは「およしなさいな」とだれにいうともなしに、歩きながら声をかけたのだった。
 男のひとりが「何を!」というなり、スマルを追いかけ、えりくびを引っばって、いまに
も手にした石の塊で、スマルを打とうとした。
 そのときスマルは、じぶんの父親にでも会ったような、なつかしい眼差しを男に投げかけ
た。そうすると、男の顔からはみるみる荒々しい表情が消え、なんともいえない幸福な表情
になった。
 そして、男はその幸福の表情をたずさえて、仲間のところへいき、男が一こと二こと声を
かけると、その仲間たちも、たちまち笑顔がよみがえり、恐怖の中で泣き伏している水車小
屋の娘を抱き起こし、地にあたまをこすりつけて、じぶんたちの不正をわびるのだった。
 泣いていた娘もまた、いま起きたすべてのことを忘れ、親愛の情でもってかれらを許すの
だった。

 ある丘の上。
 頂上で群衆がかたまってざわめいていた。スマルがちかづいていくと、十字に結ばれた木
に、一人の青年が、ほとんど全裸の状態で手と足にクイを打たれ、つるされていた。
「どうしたんですか」 
 スマルは群衆のひとりに聞いた。
「なあに今から処刑されるところでさ」
 みると、青年の足元に、兵士が数人、命令がくだりしだいヤリを突くかまえをしていると
ころだった。指揮官と思われるひときわ威厳を放った男が、馬上から、しきりに、十字架に
つるされた青年にわめいていた。
 スマルは群衆のひとりにきいた。「どうしたのです」
「あの若いのが、じぷんは神の子だといいはってるんでさ。だから、人心をまどわす罪で処
刑されるんでさ」
 スマルはそれを聞くと、司令官のところに歩いていった。「あなた、許してあげなさい」
 すると、たちまち、わめきちらしていた司令官の表情が、愛の女神に顔をなでられたよう
に、やさしい柔和な表情に変わった。
 スマルは十字架にかかっている青年を見上げた。青年は目をつぶって、すっかり観念して
いた様子だったが、スマルの気配に気がつくと、目を開けた。
 スマルは微笑みかけた。しかしその青年は、たいそう悲しそうな表情をかえした。スマル
はなおも幸福の笑顔をその青年に放射しつづけた。
 十字架の青年も負けずに、いっそうかなしそうな視線をスマルに送った。スマルはその青
年の澄んだ悲しい目の中に、じぶんも引き込まれるような、気がした。

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